「同様に確からしい」の意味について混乱する数学科生の話

風上です。

大学では数学を学び、普段個別指導の塾で中学生に数学を教えています。

塾で数学教えてると「これってどうなんだ?」って考えることが多いのでそういうときのブログのネタは基本数学のトピックになります。

以下本文

 

 

数日前塾で取り扱った問題にこんなのがあった(このブログが塾の関係者に知れたら身バレしそう)

 

「ペットボトルの蓋を投げた時表が出る確率と裏が出る確率は同様に確からしい」は正しいか誤りか

 

ん?ってなる人もいるかと思う。僕も思った。

上司に聞いてみた、「これ問題として大丈夫ですか?」って。

上司は「そうだなあ、コインならまだしもペットボトルの蓋じゃ同様に確からしいか怪しいよな」と。

僕は再び、ん?と思った。そこなのか、と。

上司との相談で「この問題に関しては深く取り合わなくてよい」となって生徒に解説もせず流れて、僕の中にもやもやだけが残った。

 

僕の考えはこうだ。

投げるのが何だろうが出る確率が記されていなければそれは同様に確からしいとは限らないだろ

 

そもそも「同様に確からしい」というのは「根元事象がすべて等確率で起こる」みたいな感じの定義だったはず。色々調べたけどどこも大体そんな感じのことが書いてある。

定義なのでもちろん⇔(同値)(片方を保証すればもう片方も立証される)なのだが、この同値関係の使い方に他と大きな違いがあったようである。

 

僕は「同様に確からしい」と明記されて初めて、その試行における根元事象の生起確率が等しいことを保証されるものだと思っていた。だけど実際(というよりは一般的?僕は未だにどちらが正しいのか分からない)はそもそも根元事象はそれぞれ等しい確率で生起するものであり、それを「同様に確からしい」と呼ぶようだ。塾の生徒も揃って上の問題を正しいと解答していた。

例えるならば、「サイコロを1回振る」と言った時点で多くの人は(一般的という言葉をここで使いたくない)1,2,3,4,5,6の目がそれぞれ1/6の確率で出る。既に同様に確からしいというのだ。

僕はというと全くそうは思わない。Xの目が出る確率をP(X)とするならば、P(1)はP(1)であって、未だ何者でもない。「1から6の目が同様に確からしく出るサイコロを振る」と言われて初めて、P(1)=P(2)=P(3)=P(4)=P(5)=P(6)=1/6になる。

だって、そうじゃないか?「同様に確からしい」という言葉が仮定に使われないのであれば、それが何のために存在するのか分からない。サイコロが出現した瞬間にそれらの面がすべて等確率で出る世界なら、「同様に確からしい」ことを論じる必要がどこにもない。

中学校の確率の問題にはそういう旨が明記されていないことに塾講師をやって初めて気付いたが、正直首を傾げながら忖度によって問題中の確率を同様に確からしいことに補正している。たぶん僕が中学生の時もそうしていたんだろう。僕はこれを信じて大学四年生までやってきたんだから。

 

今回の件によって、またこの記事を書くにあたって調べて、自分がこの「同様に確からしい」に関して誤認しているのかもしれないと言い得ぬ恐怖を感じているが、これを読んだ人の意見もよかったら聞かせてほしい。

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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